大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和59年(ネ)879号 判決 1985年12月12日

控訴人

矢崎英夫

右訴訟代理人弁護士

寺尾寛

佐藤昇

被控訴人

松木のぶ

松木照夫

右被控訴人両名訴訟代理人弁護士

杉山朝之進

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一  申立

一  控訴人

1  原判決を取消す。

2  主位的請求

被控訴人らは、控訴人に対し原判決添付別紙物件目録記載の建物を明渡し、かつ、昭和五七年五月二〇日から右建物明渡済に至るまで一か月三万円の割合による金員を支払え。

3  予備的請求

被控訴人らは、控訴人に対し控訴人から六〇万円又は裁判所が相当と認める金員の支払を受けるのと引換えに原判決添付別紙物件目録記載の建物を明渡せ。

4  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

5  仮執行の宣言

二  被控訴人ら

主文一項同旨

第二  主張、証拠

当事者双方の主張及び証拠は、次のとおり訂正、付加するほかは、原判決の事実摘示と同一であるから、その記載を引用する。

一  控訴人の主張

1  控訴人の解約申入には、次のような正当事由があつた。

(一) 矢崎安雄は、昭和四〇年七月二〇日仙波貢から本件建物を買受けた際、同人から本件賃貸借契約は昭和四二年九月末日に終了する旨約定されていると聞き、昭和四二年八月被控訴人のぶに対し同年九月末日限り本件建物を明渡すことを求めたが、同被控訴人は、これに応ぜず、その後本訴が提起された昭和五七年五月までの一五年間にわたり本件建物の使用を続け、その間賃料として社会の実情を無視した低廉な金員を供託し、控訴人は、その間右のような状況に忍従していた。

(二) 控訴人は、被控訴人のぶから本件建物の返還を受けたうえ、本件建物及びこれに接続して一体をなしている建物(原判決添付別紙物件目録記載居宅木造瓦葺二階建床面積一階四六・二八平方メートル、二階五三・三二平方メートル、以下「本件一棟の建物」という。)を取壊して一棟四戸のアパートに改築して、これを控訴人が代表取締役として経営する訴外有限会社英水産(以下「英水産」という。)の従業員寮として使用しようとするものであり、控訴人には本件建物を使用する必要がある。

(三) 本件一棟の建物は、昭和八、九年ごろ平家建一棟二戸建の建物として建築され、昭和三六年ごろ一階部分の上に継ぎ合わせて二階部分が増築され、建築後五〇年以上を経過し、二階部分も増築後二十数年を経過した。

本件一棟の建物の現状をみるのに、二階部分は、一階部分よりも大きく一階部分から突出している変則建物であるが、二階部分の支柱が十分でないため長年を経過して補強材が痛み、その各室の外側部分(右突出部分)が傾き、その結果、床、壁部分が下がり、敷居が水平でなく建具が閉まらず、人が乗れば音を立ててへこむ部分さえあり、その他床に凹凸が見られ、鴨居も下がつている部分がある。右のとおりで、本件一棟の建物は全体的に歪んで危険な状態である。また、本件一棟の建物の外側は、全体がトタン板で覆われているが、錆ついた部分が多く、雨水が浸透し、特に建物の裏側において著しく、一階部分裏側の土台、柱は腐食してもろくなり、土台が下がり建具がはまらず外れたままとなつている。更に、本件一棟の建物は、隣家と著しく接近し、特に二階部分は東側隣家と殆んど接触した形となり、建築基準法上容認されないものである。本件一棟の建物の階段は極めて急傾斜であり、非常に不便かつ危険である。控訴人は、数年前から本件一棟の建物を使用することが危険であると考え、右建物中本件建物を除くその余の部分の使用を中止している。

以上のとおり、本件一棟の建物は、全体的に歪んで危険な状態であり、本来の居宅として使用収益することができないから、改築する必要がある。

(四) 被控訴人照夫は、被控訴人のぶと同居しているが、被控訴人照夫自身としては本件建物を明渡してもよいと考えており、他に移転するのが困難である経済的理由もない。また、被控訴人照夫は、会社を経営し月収が一二万円であるというが、三八才であり右のように低収入であるとは考えられず、独身者であるから、その可処分所得も多い筈である。

(五) 原判決は、被控訴人のぶが本件建物を使用する必要性がある事情として、同被控訴人について(イ)

年金生活者であること、(ロ) 心臓病に罹患し時折発作を起こし、近くの病院に通院し投薬を受け療養中であること、(ハ) 長年住み慣れた本件建物において生活を続けることを強く望んでいること等を挙げている。

しかし、右(イ)の収入の点については、被控訴人のぶの子である被控訴人照夫の前記のような収入状態、控訴人が立退料を提供する準備があること等を考えれば、被控訴人のぶが本件建物から他に移転することが困難であるとはいえない。また、右(ロ)の病気療養の点については、右のような事情をもつて本件建物の居住を継続すべき理由とすることはできない。更に、右(ハ)の要望の点については、控訴人が前記1(一)のような忍従をしてきたのに反し、被控訴人のぶは、亡夫信義の代からすれば、すでに五〇年近くにわたり本件建物を使用し、本件賃貸借契約の目的は十二分に達成されたから、なおも被控訴人のぶの右のような主観的要望を容認することは公正を失する結果となる。

2  原判決事実摘示第二、五、1 賃貸借契約の終了 2 賃貸借契約の解除 の各主張(原判決三枚目裏二行目から四枚目裏八行目まで)は、法律上の主張としては撤回する。但し、同3 正当事由による解約申入 の正当事由の事情としては、これを維持する。

3  本件建物はもと橋本常作の所有に属し、同人は被控訴人のぶの夫松木信義にこれを賃貸していたところ、橋本常作は、昭和三八年四月二五日死亡し、訴外橋本守雄外四名が相続により本件建物の所有権を取得し、本件建物の賃貸人の地位を承継した。訴外仙波貢は、昭和四〇年六月ごろ橋本守雄外四名から本件建物を買受けてその所有権を取得し、右賃貸人の地位を承継した。訴外矢崎安雄は、昭和四〇年七月二〇日仙波から本件建物を買受けてその所有権を取得し、右賃貸人の地位を承継したが、昭和四三年一月三〇日死亡した。安雄の子訴外矢崎洋子は、同日相続により本件建物の所有権を取得し、右賃貸人の地位を承継したが、昭和五二年七月三〇日死亡した。洋子の夫控訴人は、同日相続により本件建物の所有権を取得し、右賃貸人の地位を承継した。

二  被控訴人らの主張

1  控訴人主張1の事実のうち、本件一棟のうち、本件一棟の建物が昭和八、九年ごろ平家建一棟二戸建の建物として建築され、昭和三六年ごろ二階部分が増築されたことは認めるが、その余は争う。被控訴人照夫は、本件解約申入がされた昭和五七年七月当時月収一二万円を得ていたにすぎない。

2  同2の撤回に異議はない。右撤回された主張事実が正当事由の事情になることは否認する。

3  同3の事実は認める。

4  本件一棟の建物は、控訴人主張のとおり昭和三六年ごろ従前の平家建を二階建に増改築されたのであつて、本件建物を含め本件一棟の建物は老朽化しているとはいえない。また、被控訴人らは、右増改築に際してはかなりの忍従を強いられた。

控訴人の本件一棟の建物についての新規改築計画にかかる建物は、現在の建物と比較してさして差異がなく、本件一棟の建物を改築する必要性があるとはいえない。

三  証拠<省略>

理由

一本件建物が控訴人の所有に属すること、被控訴人らが本件建物を占有していることは、当事者間に争いがない。

二控訴人が所有権に基づいて本件建物の明渡を求めるのに対し、被控訴人らは抗弁として賃借権の存在を主張するので、判断する。

<証拠>を総合すれば、本件建物はもと橋本常作の所有に属していたところ、被控訴人のぶの夫松木信義は、昭和一一年九月一六日橋本常作から本件建物を期間の定めなく賃借し、その引渡を受けたこと、松木信義は、昭和五四年七月六日死亡し、被控訴人のぶは、他の共同相続人と協議した結果、本件建物の賃借権を単独で相続したこと、被控訴人照夫は、被控訴人のぶの三男で、のぶと生計を共にして同居していることが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

右事実によれば、被控訴人のぶは本件建物につき控訴人に対抗しうる賃借権を有し、被控訴人照夫は被控訴人のぶの右賃借権に基づいて本件建物を占有しているものというべきである。

三次に、控訴人は、再抗弁として、被控訴人のぶの賃借権は控訴人の解約申入により消滅した旨主張するので、判断する。

控訴人が昭和五七年七月二日午前一〇時の原審口頭弁論期日において被控訴人のぶに対し正当事由の存在を理由として本件賃貸借契約を解除する旨の申入をしたことは、本件記録上明らかである。

本件建物及びその東側に接する建物のうち一階部分は、昭和八、九年ごろ平家建一棟二戸建の建物として建てられたものであるが、その後昭和三六年ごろ従前の建物を壊さないで二階が増築され、本件一棟の建物となつた事実は、当事者間に争いがない。

そして、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

1  控訴人の養父矢崎安雄は、昭和四〇年七月二〇日仙波貢から本件一棟の建物を買受けてその所有権を取得し、松木信義に対する本件建物の賃貸人たる地位を承継したが、その際、仙波は矢崎安雄に対し二年後賃貸借契約の満了に伴い松木信義を本件建物から退去させることを約した。しかるに、仙波は、その後二年を経過しても、信義を本件建物から退去させるような交渉をしなかつた。

矢崎安雄は、松木信義から本件建物の返還を受けこれを自己が代表取締役として経営していた水産物の卸売を目的とする英水産の従業員寮として使用する計画を立てた。その後控訴人は、昭和四三年一月三〇日本件一棟の建物の所有権を取得したので、被控訴人のぶから本件建物の返還を受け本件一棟の建物を取壊して一棟四戸のアパートを建築し、これを控訴人が代表取締役として経営するようになつた英水産の従業員寮として使用する計画を立てた。

右のような事情から、矢崎安雄及び同人の承継人は、昭和四二年七月二〇日限り松木信義との間の本件賃貸借契約は終了したとして、同年八月ごろ同人に対し本件建物の明渡を求め、同年一〇月分からの本件建物の賃料の受領を拒否した。

信義は、東京法務局に対し本件建物の賃料として、昭和四二年一〇月分から昭和四七年五月分まで月額一八〇〇円を、昭和四七年六月分から昭和五四年六月分まで月額三六〇〇円をそれぞれ供託し、被控訴人のぶは、昭和五四年七月六日信義が死亡したのち、本件建物の賃料として、昭和五四年七月分以降月額三六〇〇円を供託した。控訴人は、昭和五七年五月一四日本件訴訟を提起するに至つた。

矢崎安雄及び同人の承継人は、本件一棟の建物の所有権を取得して以来、本件建物を除くその余の部分を英水産の従業員寮として使用してきたが、控訴人は数年前から老朽化を理由に右使用を取りやめている。

2  松木信義は、昭和一一年九月一六日橋本常作から本件建物を期間の定めなく賃借し、その後昭和四〇年六月ごろ本件建物の所有権を取得し賃貸人の地位を承継した仙波貢との間で本件建物の賃貸借の期間を二年間と定めたが、右期間満了に際して本件建物を明渡すことを約したことはなく仙波からその明渡を求められたこともなかつた。

しかるに、信義は前記のとおり昭和四二年八月ごろ本件建物の賃貸人であつた矢崎安雄から本件建物の明渡を求められ、賃料の受領を拒否されたので、昭和四二年一〇月分から賃料を供託し、昭和五四年七月一六日信義が死亡したのち被控訴人のぶが賃料の供託をしている。

被控訴人のぶは、その夫松木信義が本件建物を賃借した昭和一一年九月一六日から信義とともに本件建物に居住し、昭和二〇年一一月二三日三男被控訴人照夫が出生してからは同被控訴人と同居し、これまで五〇年近く本件建物に居住してきた。被控訴人のぶは、高齢(明治四二年一〇月一〇日生)であり、昭和五四年七月六日信義が死亡してからは厚生年金を受領して生活しているが、長年にわたり心臓病に罹患し、長く入院する程ではないが、時折発作を起すことがあるため、徒歩で一〇分位の場所にあり信義が工員として勤務していた訴外石川島播磨重工業株式会社附属病院に通院して投薬を受けて療養を続けており、転居を嫌い、今後も長年住み慣れた本件建物において生活することを強く望んでいる。

被控訴人のぶは、前記のとおり本件建物において同被控訴人の三男であつて独身である被控訴人照夫と同居し、同被控訴人と生計を共にしているところ、被控訴人照夫は、高等学校卒業後会社員として勤務したのち、昭和五一年ごろ圧力、温度等の計測器械の販売等を目的とする日器工業株式会社を設立し、その代表取締役として同会社を経営し、昭和五七、八年当時月収一二万円を得ていたが、他に見るべき資産はない。

3  本件一棟の建物の二階部分は、一階部分よりも大きく、一階部分から前方に突き出ている変則建物であるが、長年を経過したため二階部分の各室が突出部分の方向に若干傾斜し、そのために床、壁部分が下がり、敷居が水平でなく建具の開閉に支障のある部分がある。

また、本件一棟の建物の外側は、一階南側部分を除き、全体がトタン板で覆われているが、錆ついた部分があり、更に、一階部分北東側の土台、柱に腐食した部分もある。本件一棟の建物は、東側隣家と著しく接近し、特にその二階部分が東側隣家と殆んど接触した形となつている。

本件建物は、本件一棟の建物の西側一階部分で玄関、六畳、二畳各一間に台所、便所が付いている。本件建物は、昭和三六年二階にした際土台を入れ替えるなどの修理をしたのでしつかりしており、柱に傾斜、損傷はなく、床、敷居等が下がつていることもなく、建具の開閉には支障がなく、その他土台、内外壁、屋根等の建物の基幹部分に構造上格別の異常がなく、住居としての使用に支障がない。本件建物が従前他から危険な建物としての指摘を受けたことはない。

以上の事実が認められ、<証拠>中右認定に反する部分はにわかに採用することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

右事実によれば、控訴人の先代矢崎安雄は、被控訴人のぶの夫松木信義が本件建物を賃借しこれに居住していることを知りながら、自ら代表取締役として経営する英水産の従業員寮として使用するために本件建物を含む本件一棟の建物を買受けたのであり、被控訴人のぶは、老令、病身であるが、長年本件建物に居住しこれに強い愛着を抱いており、本件一棟の建物中本件建物以外の部分は現在人が住んでおらず、一部損傷している部分があるとはいえ、本件建物は現状のままなお居住の用に耐えるのであり、控訴人が本件建物の明渡を受けて本件一棟の建物を英水産の従業員寮として使用しえないことにより同会社が不利益を受けることがあるとしても、それはある程度予想されたことであつて、被控訴人のぶの犠牲において右従業員寮の新築計画を早期に実現すべき強度の必要性がある事情は認められず、控訴人の本件建物の明渡を必要とする程度が被控訴人のぶの本件建物を必要とする程度に比較してより大きいということはできないから、控訴人の被控訴人のぶに対する本件賃貸借契約の解約の申入には正当事由がないものというべきである。

なお、前記事実によれば、控訴人の先代矢崎安雄は、昭和四〇年七月二〇日仙波貢から本件一棟の建物を買受けて松木信義に対する賃貸人の地位を承継した際、仙波との間で、仙波がその責任において二年後には本件建物の賃借人信義を本件建物から退去させる旨を約したのであるが、信義は仙波に対し二年後に本件建物を明渡す約束はしていないのであるから、矢崎安雄が昭和四〇年七月二〇日当時その二年後に本件建物の明渡を受けられるものと速断し、そのため賃料の増額をしないまま推移した事実があつたとしても、右事実は前記結論を左右するものではない。

また、本件記録によれば控訴人は昭和五八年一二月二二日午後三時の原審口頭弁論期日において被控訴人のぶに対し正当事由の補充として六〇万円又は裁判所の適当と認める立退料を支払う用意がある旨の申出をしたことが認められるが、前記事実によれば、右立退料の提供によつて本件解約申入について正当事由が具備するに至るものと解することはできない。

四そうすると、控訴人の前記解約申入はその効力がなく、被控訴人らは、被控訴人のぶの賃借権に基づき本件建物を占有しているのであり、賃貸借の終了を前提とする賃料相当損害金の支払義務はないものというべきである。

五よつて、控訴人の被控訴人らに対する本訴請求はいずれも失当として棄却すべく、これと同旨の原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担について民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官川添萬夫 裁判官佐藤榮一 裁判官石井宏治)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例